本稿は、米韓相互防衛条約の締結の必要性を一貫して否定してきた米国政府が、正式の政策方針として同条約を推進することにした経緯を明らかにしたものである。朝鮮半島からの中国軍の撤退、反共捕虜の処遇をめぐる諸問題、それから政治会議のあり方を中心とした休戦条件と並行して、米韓相互防衛条約の締結を主張していた韓国に対して、米国政府は、韓国が同条約の締結を切実に願っていると判断し、1953年6月7日に休戦協力への見返りとして同条約の締結に向けた交渉を開始する意向があることを李承晩に伝えた。ところが、李承晩としては、米国との相互防衛条約の締結だけでなく、他の休戦協力への条件も譲れないものであって、米国から同条約に向けた交渉開始の提案がなされた際も、その強硬な姿勢を一向も軟化させようとしなかった。 一方、板門店においては、李承晩のからの強い反対にも関わらず、大詰めの協議が行われていた。会談の進展振りに危機感を覚えた李承晩は、1953年6月18日夜明け、北朝鮮軍の反共捕虜を電撃的に釈放するに至った。韓国軍の国連軍司令部の指揮からの離脱を最も警戒していた米国にとって、これは同司令部の権威に挑戦するかのような単独行動にほかならなかった。ただ、李承晩は、反共捕虜の釈放以降、追加的な大規模の釈放に踏み切ることなく、自らの単独行動によって悪化した状況の沈静化を図ろうとする一方で、「休戦に関わることなく休戦を支援できる」と韓国の休戦協力への可能性を初めて表明した。李承晩による反共捕虜の釈放は、従来の休戦反対の姿勢から本格的な米国との交渉に応じる姿勢への転換を予告するものであったと言えよう。これ以降、休戦協力への条件と米韓相互防衛条約の条項をめぐる米韓間の協議が本格化するのである。
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