本稿は2000年代の日本映画が表現する日本社会のナショナリズム的傾向を考察するために、俳優窪塚洋介が出演した一連の映画『GO』、『凶気の桜』、『俺は君のためにこそ死にいく』を分析対象に選択し、それを「アイデンティティ」と「公共性」というキーワードを持って考察した。窪塚は『GO』において、韓国、北朝鮮、日本の間で民族のアイデンティティの葛藤を持つ「杉原」を演じたことをきっかけに明らかにナショナリスト的な言動を示すようになり、それは『凶気の桜』において渋谷を「掃除」しようとする右翼ギャング役を演じることにつながっていく。しかしこの映画において表現される「日本人というアイデンティティ」というのは「想像=創造」される性質のものでその意味内容が空虚である。以後『俺は君のためにこそ死にいく』において窪塚は「大切なもの」を守るために散華していく特攻隊員役を演じることで一定の政治的態度を選択するようになる。即ち、「決断主義」的な姿勢を持って特定の政治理念のイデオロギーを示すようになる。 このような窪塚的な行動に見られるような日本の若者のナショナリズム的傾向について、それを「2ch」的な「アイロニーの空回転」として捉えるか、あるいは既存の政治勢力に回帰する現象として見るかは今の段階では判断しかねるだろう。しかしこのような両方向の表現が現在の大衆文化領域において表れているのは確であり、重要なことは提起されている「公共性」の回復の問題についてどのような方向、あるいは意味内容を持って応えていくかであろう。
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