周知の通り、NPT体制(核拡散防止条約)は一九六三年からの議論の後、一九七十年からの実施を見たわけである。ちょうどこの間に、先に取り上げた中華人民共和国の核実験の成功がある。一九七十年当時、人民共和国は国連の議席をもたない存在であったものの、一九七二年に議席を勝ち取り、さらに安全保障常任理事国のポストも手に入れた。これこそ冷戦政治の一大転換点であった。そして一九九二年、人民共和国はフランスとともにNPT体制の中に入ることになる。そして以下のような転換が出て来る。すなわち、独自外交を目指したフランス以外の「西側先進国+ソ連(ロシア)」体制が既存の核兵器保有国の枠組みであったものが、第三世界である中国が入ったことによって、核兵器保有の波はさらに、インド、パキスタン、イスラエル、DPRK、そしてイランへと拡大し続けようとしているということである。これら新たな核保有国に共通するのは、NATOに入っていないこと、そして「主権が犯される危機」を抱えていることである。 ここで考慮されなければならない点は、二つある。まず、第三世界の核兵器保有の波は、先に述べたように中国によって押し広げられたものであるが、中国の軌跡が模倣されているということ。さらに第三世界の核保有の正統性として挙げられている「国家主権」の概念が強調されている点である。「国家主権」とは、元よりヨーロッパ世界が発明したところのものであり、それが独立運動という政治的契機によって育まれた経緯である――これを無視することはできない。このことに関しては、イスラエルもその例外ではない。ここから派生する問題として、もう一点新たな問題領域の浮上を指摘しておきたい。NPT体制自体が国民国家を基本単位としており、トランスナショナルな組織が核兵器を保持する可能性を想定していなかったことから、息子ブッシュ政権以降の反テロ戦争の口実において、トランスナショナルな組織による核兵器保有(及び核施設攻撃)を阻止する必要性が議論されて来た事態である。現時点での技術水準からすれば、核兵器開発と核兵器保有は安定的な技術管理と施設管理が必要されるため、いずれにせよ国家の手を離れていない段階である。従って、核兵器保有に成功した国家がトランスナショナルなグループにそれを引き渡してしまうというストーリー――現時点で欧米諸国が危機感を抱く絵は、ここに集中しているようである。思い返せば、先に述べたキューバ危機(一九六二年)から人民共和国による核実験の成功(一九六四年)において顕在化したように、核兵器を保有することは通常の所有概念を超えた領域にかかわる思考を要求することとなった――実にこの点が重要である。片やキューバ危機においては一度配備したミサイルが返還されてしまうという経緯が示され、片や中国の核実験の成功においては技術移転の進んだ後ではその輸出元との関係を断ち切って独自に核兵器が保有できる状態が出現したことになる。そして結果的に、この中国のやり方がそれまでの冷戦の文法(この文脈ではソ連の核の傘)を書き換え、核兵器保有を梃子として(つまり決して美しくはない方法を用いて)第三世界諸国の自主独立路線が実現されてしまったということ。この意義を理論的に押さえなければ、おそらく日本の反核平和運動はその発言力、波及力を持ち得ない状態を強いられることになる。 さて次に世界中の原発建設(原発輸出を含む)の問題に関する整理に移りたい。ここでも主役となるのは、やはり第三世界である。いわゆる先進諸国が第三次産業の比率を高めて行く中、第三世界諸国は第二次産業に集中した国家政策において膨大な電力需要が見込まれる――この条件下において原発建設(原発輸入)が促進されようとしている。現在、脱原発運動の方向性が様々議論されている段階にある日本において、やはり弱点となっているのはこの観点である。この観点が重要であるのは、まさに日本の原発開発にかけられた「平和利用」の技術が、この原発輸出というモメントに依存することで延命を図ろうとしている事態が存在するからである。ただ今ある原発を廃絶に持っていこうとする運動側の論理に立ったとして、そこで「廃炉」のための技術管理、さらには廃棄物の高度集中管理自体は必要なことであろう。しかし第三世界に対する(あるいはスリーマイル原発事故以降に原発建設をストップさせた米国に対する)原発輸出は、いずれにせよ「第二の福島第一」を生み出す事態というもの、つまり原発事故の拡散をもたらすという意味で、運動側の議論において喫緊の対象にせねばならない問題である。さらに将来的に必ず発生するだろう核廃棄物処理と管理にかかわる膨大かつ致命的なコストにかかわる議論が世界的に行われなければならないはずである。 ここで最も原理的な問題領域に入らざるを得ないのは、つまり第三世界諸国が第二次産業の発展を目指そうとする欲望は、いわば国家と資本が求める自動運動のようなものであり、さらに大きく言えば世界資本主義における不均等発展の法則そのもののことである(D・ハーヴェイ)。世界資本主義にとって、不均等発展は必要な配置でもある。第三世界諸国による原発建設(あるいは輸入)とはまさに、短期的なコスト計算と安定的な電力確保という命題から発した欲望と見做し得るが、この選択の危険性自体を知らせることは可能ではあろう。しかしその一方、原発という選択を強いる構造、あるいはそのような欲望そのものを断念させるところの、先進国第一世界からの「啓蒙」は倫理的に成立するかどうかという疑問も出て来る。 ここにおいて歴史の前提として踏まえなればならない位相があるように思われる。中国もインドもその独立の過程において、国是として「自力更生」つまり「自立」が謳われていた時期があり、しかもこれは(現実はどうであれ)理念としては維持されて来たものであるということ。もう一方の日本にはそのような理念はかなり薄く、米国からの「自立」はほとんど追求されてこなかったということである。そのような日本の反核・反原発運動は第三世界に向けて一体何を主張できるだろうか。広島や長崎が世界に発信して来た、やや抽象化された「被害のイメージ」を伝えるだけであるなら、予めその効果は中々見込めないものとなろう。今後おそらく世界の原発建設(そして反原発)の流れは、産業構造の転換からむしろ脱原発が「合理的」とされて行くだろう先進国ではなく、中国、インドなどの第三世界の国々がどちらを向くかによって決定的な転換を生じることになるはずである。兵器であろうと「平和利用」であろうと、「核」は先進国によって開発され、そして第三世界へと下ろされて来た特殊な産物である。核廃絶という世界史的使命は、それを発明した側ではなく、それを外側から持ち込まれた側――自ら取り入れたとも言えるのだが――によって完遂されなければならなくなった、と言えるのではないか。
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